吐露アンプリファー -6ページ目

キャンプ打ち合わせ2

今日は、就活中に知り合った奴らと作った組織(来たる社会人サークル?)で今月末に行くキャンプの打ち合わせをNちゃんと二人でしてた。


Nちゃんは典型的なA型タイプの人間ですごいしっかりしており責任感も人一倍強いが、そのぶん「運転でいう所の遊び」が少ないんで、今回の自分の仕事はNちゃんが作った計画に対して議論し合って如何にその中に遊びの部分を入れてくかってことやった。


最終的にいい感じのプランになったんでよかった。


Nちゃんみたいな典型的なA型タイプの人間が組織のメンバーの中にいるとすごい助かる。謎の多いNちゃんにはこれからも期待。


組織ってのは色々な人間で形成され、それらが有機的にインタラクションし合ってこそ本当の意味での強さが出るってのを改めて感じた。


独裁的な運営には無理がある。

心に残りし言葉(6)~理論と実践~

「何事もバランスが重要である」という昨日記事中のコメントを見て思い出した好きな言葉があるので、それを以下に記す。




実践なき理論は空虚であり、理論なき実践は無謀である




この言葉には汎用性があり、さらに非常に深い。


自分には立ち止まって悠長に考えている(理論を練っている)時間はもう無いので、走りながら(実践しながら)考えていかねばならないと思う今日この頃。


<<回顧 >>


心に残りし言葉(1)~CHANGEとCHANCE~

心に残りし言葉(2)~clever~

心に残りし言葉(3)~生き方の美学~

心に残りし言葉(4)~タテ社会の人間関係~

心に残りし言葉(5)~夢~

事業活動をする意味の追求

まず、以下に引用する。その後に私の見解を述べる。



ある人が街を歩いていたら三人の人がレンガを積んでいた。「何をしてるんですか?」と質問したら、最初の人は「見ればわかるだろう。レンガを積んでいるんだ」と言った。二人目の人は「レンガを積んで壁を作っているんだ」との返事。そして三人目の答えは「私はレンガを積んで、ここに壁を作ってここに天井を張って、そして教会を造るんです」だった。


教会を造ることで、たとえば平和な社会を創り出すことが、レンガを積んでいる人(の所属する企業)の存在意義であり存在価値なんだろうと思う。ただ単にひたすらレンガを積む行為自体に夢があるだろうか?壁というある種の機能を作ることに希望があるだろうか?それは三人目の「教会を造る」という行為になって初めて意味を持ってくる


単純に終始しがちな作業に大袈裟にいうと大義が宿ってくる。その行為はワクワク感に彩られる。サクセスイメージができればルーティンワークでもドキドキしてくる。モルタルを塗りこめるコテに一層の力が入る。仕上がりに合わせて仕事に創意が付加されていく。僕は同じレンガを積むんだったら三人目のレンガ積みになりたい。意味だけで仕事はできないけれど、未来感がなければ仕事はワクワクしてこない


<中略>


とはいえ事業は綺麗事ではすまされない。目の前にあるレンガをただひたすら積まなければならないこともある。未来感も日々の激務のなかで埋没しがちかもしれない。教会を造って新しい世界をつくるといったところで、食べなければ生きてはいけない。それも至極当然だ。しかし、世の中を社会をどう変えたいのかという、組織の構成員に共通する考えがなければ、会社としての存在価値はないだろう。それが戦略立案の根底に根差していなければならない。人はパンなくしては生きられないが、パンのみにても生きられない


(「借金1兆円を10年で返したリクルートの現場力」 井上功著 より)



まず、一点。


仕事をしていく上で「レンガを何のために積んでいこうとするのか」に対しての答えが自分のものと自分が所属する会社の間でずれがあると厳しいと思う。何故なら自分がその会社でレンガを積むことに意味を持たせることが非常に不自然な行為となってしまうからだ。だから、これから就職活動を始める人達(特に、成長意識が高い人達)にはそこらへんのことも重要視して会社を選んで欲しいと思う。その点、自分は非常に満足のいく就職活動を終えることができた。


次に、二点目。


自分と会社の方向性が一致したならば、日常の激務にだけに目をやるのではなく、常に先を見、その未来感からドキドキを得ればいいと思う。これは、自動車の運転にも共通するように思う。例えば、非常にシンプルで非常に長い直線道路を運転しているときには非常に飽きる。ただし、ずっと先の方に目をやった時にカーブがありそのカーブの先が見えていない時には、その先には何があるんだろうと非常にドキドキする。たとえ、そのカーブの先にまた直線が続いていたとしてもそれまではドキドキする。カーブを曲がりきった後にも、さらに先を見ればいい。これは運転しているときに自分の目の前だけに目をやっているときには得られないドキドキ感であると思う。これは仕事にも共通すると思う。この世はそれほど複雑には創られていない。


最後に、三点目。


自分が将来起業する際には「私はレンガを積んで、ここに壁を作ってここに天井を張って、そして教会を造るんです」と答えたいし、そうでありたい。そして世の中の一部分でもいいんで良い方向に変えたい。

思い込みの動物~人間~

まず、以下に 3つ引用する。


これら3つにより2点感じることがあったのでそれを後半に記す。



人間というものは、ほとんど常に感情の色めがねをとおして世界を見るもので、そのレンズの色しだいで、外界は暗黒にも、あるいは深紅色にもみえるのです。


(「即興詩人 (下)」 アンデルセン著 (大畑末吉 訳) より)



現代の心理学は、「思い込みの世界で生きているのが、むしろ人間の正常な姿だ」と教えてくれる。そしてこの思い込みのことを、フレームワークと呼んでいる。<中略>「人の頭の中はフレームワークが支配している」というのは、二十世紀の心理学が到達した重要な結論の一つなのである。


(「成功術 時間の戦略」 鎌田浩毅著 より)



人間は(主観的に)意味づけられた世界に住んでいる。われわれはありのままの環境を体験するのではなく、常に人間にとっての重要さに応じて環境を(意味づけてから)体験する。<中略>人間であるかぎり、意味づけから逃れることはできない。われわれはわれわれの与えた意味づけを通してのみ現実を体験するのであって、現実そのものではなく、何らかの形で解釈された現実を体験するのである。


(「アドラー心理学の基本前提(4)認知論」 野田俊作著 より)



これらのことは何気なく生きていても何気なく感じることであるが、それを再認識するという意味でも役に立った。


まず、面白いと感じた一つ目のことは、


「われわれは現実そのものではなく、何らかの形で解釈された現実を体験するのである」という点である。


これは、現実世界という一つの世界の上に、人間の数だけ何らかの意味づけを持った透明のシートがパラレルに存在するということを表現していると個人的には解釈した。そして、この解釈をもとに概念世界を構築しそこに哲学を加えることで非常に興味深いものを描くことができると感じた。ただ、この解釈の展開はここではやめときます。


そして二つ目に興味深いと感じたのは、


ビジネスをする上で「人それぞれが異なるフレームワークを持っている」ということを肝に銘じておかなければならないということを再認識できた点です。


自分のフレームワークを他人に押し付けることはビジネスの世界では全くいただけないことのように感じる。営業をする上でもこのことは非常に重要なことのように感じる。さらに、自分のフレームワークに固執しすぎると、自分を含むこの世界の全体像が逆に見えにくくなり、それだけビジネスチャンスを逃すことになりかねないとも感じる。人それぞれ異なるフレームワークを持っているという命題を客観的に認識することの必要性を再確認することができた。


但し、このブログにおいて私自身のフレームワークを外す気はさらさらありません、全て私のフィルターを通した視点でこれからも書いていきます。

チームタフ&ラフ初戦~チーム琵琶湖(仮)戦~

昨日、内定者研修の自分のチームとUらりんのチームとで高槻に飲みにいった。


チームタフ&ラフからは、R-し、Aすか、Eもっちゃん、自分が参加し、


チーム琵琶湖(仮)からは、Uらりん、Sかい、Hめ、Uこりんが参加してくれた。


チームタフ&ラフ VS チーム琵琶湖(仮)。


高槻というどちらのチームにとってもアウェイとなる飲み試合でしたが、かなりいい試合してました。


かなりの泥試合でした、チーム琵琶湖(仮)の女性軍団の最強のノリに負けじとしたあまりにチーム内で落しあうというハプニングも生まれ、新たにブラック同盟(現在ニ名)というものも生まれました。


試合結果はイーブンってとこです☆


めちゃめちゃめちゃ楽しかった。


一次会はワタミで飲み、二次会はカラオケに行った。


久しぶりにめちゃめちゃめちゃ飲んだ。


めちゃめちゃ面白かった。


帰り、最寄駅からチャリをこいでるときに電柱に2回激突して、2回ぶっ倒れた。


チャリこいで電柱に激突してぶっ倒れるってのはかなり久しぶりの経験やった。


チャリこいで電柱に激突してぶっ倒れて次の日の朝起きたら意味わからん怪我してるのも久しぶりやった。


ぶっ倒れてるときに誰か知らん人に「大丈夫ですか?」って聞かれてゲロ吐きながら「大丈夫です」って答えてた(汚くてすいません)。


最近機種変更したばかりの携帯が若干つぶれた。


また指輪無くした。


何はともあれ楽しかったんで、全て良し☆

思い出バトン

toyomaru から思い出バトンなるものが回ってきたんで、過去を振り返る良い機会としてまじめに書こうと思います。



●小・中・高校で、一番思い出深い時期は?

全て。


小学校 : やせ我慢との戦い&性に猛烈に目覚める


冬の或る日におかんが「こんな寒いのに半袖でがんばってる子が近所の公園におったで~、すごいわね~。」と晩飯のときにふと言った。


これが全ての始まりでした。


「相手が半袖なら俺はタンクトップじゃ」と顔も知らない相手に対して敵対心を燃やし、それ以来数年間、一年中タンクトップ&短パン&靴下はかない子となった。


めちゃめちゃやせ我慢の毎日やったけど顔も知らない相手に負けたくない一心やったんかどうかは覚えてませんが、毎日家を出る直前までストーブに張り付き、全速力で学校まで走って行ってた冬の日の光景が思い出される。冬の朝礼は悲惨でした。そして縄跳び痛かった。


おかげで、学校新聞の取材を受け、「何故そんな格好をしているのですか?」という問いに対し、小学生ながら面倒臭かったんで「家に服を買う金が無いからです」と適当に答えてしまい、後でおかんに怒られる。


今の自分が体をはることに何の抵抗も感じないのはこのやせがまん経験が大きいのかもしれないとたまに思う。


性に猛烈に目覚めたんも小学校んときやったけど詳細は。。。



中学校:人生の中で最も勉強した&人生の中で最も睡眠時間が短かった


中高一貫教育の中学に通っていたが、6年間同じとこに通うのは変化が無くて嫌やったんでより高みを目指し、猛烈にハイレベルな塾に入り猛烈に勉強し、高みの高校を目指した。


「there is構文」すら理解していなかった中学2年一学期の自分が入塾した先では既に「仮定法」を終えていた。他の科目も同じような感じやった。かなり衝撃的すぎて全く意味がわからんかったけど、めげずにひたすら勉強した。生き地獄ってのはこういうのを言うのかという極限を体験した。そして何とか生き延びて塾内でも上位に食い込むまでに成長し、中学3年のS台模試では英語で全国トップにまで登りつめた(これだけは自慢させて下さい)。


とにかくめちゃめちゃ死ぬほど勉強した。身長があまり伸びなかったのは、この成長期に全然睡眠をとっていないからではとたまに思う。


学校から帰ってきて塾に行って、塾から帰ってきて朝学校行くまで勉強して、学校に枕を持って行って学校ではひたすら寝るというむちゃくちゃな生徒でした。


死ぬほど勉強して、行きたかった高校に合格したときの喜びは今でも忘れません。


少林寺拳法部に所属してて県大会で3位になったんもいい想い出です。



高校:コンパづくしの毎日でした&天才との出会い


中学で勉強しすぎた反動か、高校ではいかにしてプライベートを充実させるかしか考えていませんでした。


てなわけで、週に2~3回ペースでコンパしてました。


テニス、軽音、陸上、器械体操部に入ってました。


テニス部以外は、自分達で勝手に作ってやってました(これをクラブと呼べるかどうかは謎)。


女癖が悪くなったのもこの頃からです。


甲子園でのビールの売り子をメインの収入源とし、歩合制にはかなり燃える人なんで、後々「伝説の売り子」と呼ばれるまでに登りつめました。


服に一番金を使ってたんも高校のときです。


数学の世界に魅了されたのも高校に入ってからです。


数多くの本当の天才に出会ったのも高校でした。


「理系クラス→文転→文系クラス→理転→理系クラス」という意味のわからないことをしてました。ある意味担任に褒められました。


高校生活後半はちゃんと(?)勉強しました。



●得意だった科目は?

英語、数学、美術



●苦手な科目は?

社会、家庭科



●思い出に残った学校行事を三つあげてください


・小学校のときの自然学校(山の宿舎に泊まりにいくイベント)


・中学の時の少林寺拳法部の寒稽古


・高校の時の就学旅行



●学生時代は、クラスでどんなキャラでしたか?


小学校:意味わからんキャラ
   
中学校:ひたすら寝てるキャラ


高校:グダグダキャラ&謎めいたキャラ



●学生時代の友達からの呼び名は?

苗字半分、ま○っちゃん半分



●好きな給食のメニューは?

きなこパン



●学生時代の友達はあなたにとってどんな存在ですか?

とんこつラーメンの中の紅しょうがのような存在



●次に回す五人

割愛



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振り返ってみると、高校を卒業するまでの自分はほんま器の小さな奴やったって思います。

人間のスペック

非常に考えさせられる文章があったので以下に引用する。



私には一つだけ確信していることがある。それは、人間は不確定で、自分で認識している自分は、自分という存在のごく一部分だということだ。


(頭がいい人の「自分を高く売る」技術 樋口裕一著 より)



自分の器の限界は自分自身の思い込みが決めてしまうように感じる。


また、各人間の内面も思い込みにより固定的内面としてしまっているようにも感じる。


人間は生涯に渡ってその脳のわずかな部分しか使用していないこと、そして、人間は非常に複雑そして入り組んだ有機体であることを考えると、やはり各人間に無限の可能性があるように感じる。


無限の可能性を有限の可能性に収束させてしまうかどうかは各人次第なように思う。


自分で自分の器の限界を設けてしまうことなく、常に向上心を持ち続け、日々成長していきたい。


そして、将来「めちゃめちゃでかい奴」になりたい。


そう思った。

因数分解完全な文章~野望編~

昔、受験で英語を勉強していたときに非常に感動したテクニックがあり、今でもその手法を用いているものがある。


それは、


英語を因数分解して読む


というものだ。


因数分解というのは、


a^2+2ab+b^2=(a+b)^2


を代表とする誰しもが中学の時にならった数学の手続きみたいなもんだ。


これを英語に適用すると、最も簡単な例としては


He and she will play tennis or baseball tomorrow or next Sunday together.


という展開文は、


(He*she)*will*play*(tennis+baseball)*(tomorrow+next Sunday)*together.


と因数分解される。


(「*」は論理積(「且つ」)を表し、「+」は論理和(「または」)を表す)


こういう因数分解を施すと文章の論理構造を捉えやすく、英語は読み易くなるんで今でもこの方法は用いている。


で、ここからが野望です。


それは、


因数分解を完全に施すことのできる日本語の文章を一度書いてみたい


というものです。


「因数分解を完全に施すことのできる」というのは、


(a+b)^2*(c+d)*e


というように、全てを積(掛け算)とべき乗を用いて繋ぐことのできるもののことを言い、


(a+b)^2*(c+d)*e+f


の最後の「+f」のような和(足し算)がはみ出さないものを言います。


ただ、こういう文章は内容を薄くするといくらでも書けると思います。


しかし、


そこは内容も濃いもので、且つ因数分解が完全に施せ、且つそこそこの字数を持った文章を書いてみたい。


因数分解が完全に施せるという文章のハード(枠組み)を保ったまま、そのソフト(内容)を高める


このことには非常に興味がある。



【追記】


非常に汚い因数分解でいいならば、どんな文章でも因数分解をして一つのまとまりにまで落すことは可能なように感じる。


汚い因数分解ではなく非常に美しい因数分解の結果に持っていけるような文章を一度書いてみたいってのが厳密な野望だと感じた。

自然界と人間界との誤差

ずっと以前からひっかかってることで、今日便器に腰掛けてたらふと再び脳裡に甦ってきたのでそれを記します。


以下は私の妄想です。


いきなり本題に入ります。


1を3で割った結果に対して凄い不思議なことがある。


(この点に関してはずっと以前にT田とAきおとの三人で色々論議して、一つの結果が出たような気がするけど、たぶんそのとき納得してなかったはずなんで、その論議でどのような結果が出たのか忘れました)


1を3で割るとその結果は1/3(3分の1)だと小学校で習う。


そして、


1を3で割った結果の一つの捉え方として0.3333・・・・という無限循環小数だと中学校か高校で習う。


この二つの捉え方を習うと大きな疑問が生じる。


それは、


1/3に3を掛けると1に復元されることに対し、


0.3333・・・・・・・・に3を掛けても0.99999・・・・・・・・となり一生1に戻らない


ということである。


ここでは大きなまやかしがあるように思う。


1/3(3分の1)というのは非常に概念的なもので「1を3つに割ったものの1つ」という非常に抽象的なものである。


(さらに1/3に3を掛けると1に戻るという分数の手続きも人間が構成したシンボリックなルールにすぎない。)


厳密に1を3で割ると完全に均等な「概念1/3」が3つできることは決してない。


すると、この分数表記というものは概念的なもので非常にアバウトなものだと捉えることができる。


ここで、人間界を構成するほぼ全てのツールの理論的基礎に含まれる「微分」の定義に分数が含まれていることを考えると、


「0.333333・・・・・・・・・・・・」と「1/3という概念」の間に自然界と人間界との間の誤差が少なからず含まれているように感じる。ここでは別に3である必要はありません、無限小数に持ち込めるものならなんでも構いません。


(微分の場合は極限という近似によってさらにごまかしを加えているが。)


以上、妄想でした。


この考え方に対しての、反論・参考意見は大歓迎です。

上司に期待は禁物

原田永幸社長著「とことんやれば、必ずできる」から以下引用。



上司という存在はどうも、部下から煙たがられることが多いようです。厳しい上司は恐いし、優柔不断な上司は頼りないし、<中略>いろいろなタイプの上司がいますが、理想の上司というのになかなか出会えないのが現実なのかもしれません。それでも、あえて私は、「どんな上司であっても、まずはひたすら仕えなさい。サポートしなさい」と言いたい。上司に媚びへつらいなさいという意味ではありません。むしろ、上司に満足してもらうことを仕事の目的とすべきではないと言いたいのです。


言い方を変えましょう。上司にどんなに不満を抱こうが、上司が自分の都合に合わせて変わるわけはありません。<中略>つまり上司に何かを期待することに、そもそもムリがあるということです。その点をしっかり認識すれば、上司に不満を抱いてもしょうがないと、あきらめがつきます。


しかし、ここで腐ってしまうのはいけません。


強引にでも、「私は上司に恵まれた」と思うことがポイントです。


ものは考えよう。


ダメ上司であればあるほど、自分がする仕事の範囲が広がると喜べばいいのです。また、厳しく熱血漢の上司ならそれもよし。どんどん、挑戦課題をぶつけていくことができます。こんなふうに仕事を自分中心に捉えて行動することが結果的に、上司をサポートすることにつながります。私が、「上司に仕えなさい。サポートしなさい」というのは、そういうことです。上司への不満を抱えて鬱々と仕事をしていると、自分自身の大切な仕事人生が上司に左右されてしまいます。それよりも、「私は上司に恵まれた」と思って、不満を棚上げにし、自分自身を厳しく律して、周囲と協調しながら仕事そのものの質を向上させていく方が自分の成長につながるでしょう。



自分はまだ社会に出たことはないが、今までバイト、研究室、クラブ活動やサークル等色々な場面で上司のもと仕えてきた。その中の上司には非常にくだらない上司もいた。


その際、


くだらないと感じる上司に仕える→ストレスがたまる→不平不満をツレに言う→ストレス発散→上司に仕える


という非生産的なサイクルを繰り返してきた。


このサイクルからは何も生まれない。


やはり、原田社長の述べるように何事もものは考えようだと感じた。


最近、「マイナス思考から得るものは何もない。さらに言ってしまえば、マイナス思考は歪み・狂いだけを残す」ということをつくづくと実感するようになってきた。このことは何となくそう思うことは今までに何度もあったが最近確信するに至る。やはり、何事も前向きに捉えて生きていったほうが、長期的な目で見ると、絶対に良い方向に人生が流れていくように感じる。


(注意:マイナス思考と慎重に物事を考えるということは全く別なことだと考えています。)