音楽生誕の必然性を辿る
まず断っておかなければならないのが、私は今まで全くと言っていいほど音楽という学問を勉強してこなかった(小学校の音楽の授業でさえさぼっていた)ため本記事中においての単語は破綻をきたしているかもしれませんが、そこは御了承を。
さらに、私が個人的に非常に感動したことを以下に2点記しますが、人によっては至極普通のことと受け取られるかもしれません。
では、本題に入ります。
本記事タイトルで「音楽の生誕」と書きましたが、ここで言う音楽とは厳密には楽譜(楽譜理論?)のことを指します。
何故、私が音楽生誕の必然性を辿ることになったかと言いますと、そのキッカケは非常にくだらないことでした。
私は、最近、飲み会の場での一気コールをWEB上で公開するということに若干関わっておりました。
この、一気コールをWEB上で公開するということこそ「音楽生誕の必然性を辿る」キッカケとなったのです。
そして、つらつらと一気コールをWEB上にその字面だけで表現して並べていたのですが、かなりの無理がありました。
この一気コールを自分の頭の中にあるメロディー、リズム、音の表情そのままをキープしたまま再現性を持たし誰かに字面で伝えることができればいいのになーと心底強く感じるようになりました。
この「再現性をもたしたまま自分の頭の中の音を字面で伝えたい」っていう人間の願望こそ音楽(楽譜)生誕の源泉となったのではないかと個人的に強く感じました。
たぶんこの推測は当たっているような気がします。
楽譜を本当に最初に考案した人も、私みたいに一気コールとかそういうくだらないレベルからキッカケを見出したのではないかと感じています。
この音楽生誕の必然性を辿ったという点が私が感動した一つのことです。
それと同時にもう一点感動したことがあります。
私は、大学の時は理学部物理学科に所属していたこともありなんちゃってではあっても一応、物理学というものに触れてきました。
ここでは実験物理学についてさらに言及します。
実験物理学には再現性が求められ、誰しもが同じ実験をして同じものが作れることが望まれます。
したがって、かの天才アインシュタインの頭の中の一部をそのまま現代に再現することが可能なのです。
この再現性という点からいくと、
音楽というものも楽譜というものを媒介とすることによって非常に厳密に再現性が保たれているのだなあと生まれて初めて実感しました。
バッハの頭の中にある音をバッハがその音を忠実に楽譜に射影することによって、その頭の中の音はいつまで経ってもバッハの頭の中にあった状態のまま再現されていくことが可能だということを実感しました。
強引に言ってしまうと、音楽も科学なのだなあと思い感慨に耽りました。
音楽の再現性、これが私の感動した二つ目の点です。
キャンプの打ち合わせ
今日は就職活動のときに出会った仲間達と九月半ばに行くキャンプについての打ち合わせをやった。
今までこの集団は自分が創設者の一人とういこともありどこか自分が主導権を握ってワンマンで企画を通してきた感があって、もうちょっと他のメンバーにも色々と企画を打ち出して欲しいと考えていた。
そこで、今回の企画は他のメンバーに任していたわけやけど色々としっかりやってくれてたんでかなり嬉しかった。
「良きリーダーの一要素に部下をどれだけ上手く育てるか」ってのがあるってのをどこかで聞いたことがあるけど、まさにそういった感じで、企画力と実行力がある頼もしいメンバーが出てきてくれてかなり嬉しい。
この集団(来たる社会人サークル?)の名前も創設して9ヶ月ぶりにして決まったんで一歩前進。
後は一度膨れ上がってぐだぐだ感が出てきているこの集団をどうリストラクチャーしていくかが課題。
時間の不可逆性
この世界には、時間は二度と戻らないというルールがある。
(コピーした時間を戻すことは可能であるが、リアルに流れる時間を戻すことはできない)
時間の不可逆性。
これはこの世界にどっぷり浸かっている限り極自然で当たり前の現象である。
しかし、客観的に考えるとこれは非常に面白い現象だと思う。
すごくシンプルであり、それ故、この世界がある程度うまく回ってる気がする。
時間が各個人によってスパゲティのように入り組んで独立して進んだり戻ったりしたならばこの世界はもっと複雑になっていたであろう。
よくできたものだ。
この世界は。
昨日から今日ではなく、今日から明日を見る
昨日に引き続き、原田氏の著書「とことんやれば、必ずできる」から新しい気づきを得たんでそれをここに記すこととします。
まず、その部分を以下に引用します。
成功の秘訣は、絶対にあきらめないことにあります。しかし、引く勇気を持つことが大事なときもあります。<中略>一生懸命に取り組んできたことを尊重したい気持ちはわかりますが、それに引きずられて誤った判断をしてしまうケースが多々あります。人には「せっかくここまでがんばってきたのだから、あと少しがんばろう」というメンタリティがあって、つい感情でいつまでもズルズルと引きずられてしまいがちなのです。常に、「今日から明日を見る」というビジネスの基本に沿って正しい判断をし、持続するか否かを決めることが大切です。これは、株式投資にも通じる、ビジネスの基本的な考え方です。
私自身も「せっかくここまでがんばってきたのだから、あと少しがんばろう」というメンタリティを強く持っています。
ただ、このメンタリティにあまりにも強く引っ張られるのも問題であるということをビジネス界の実力者が警告して下さってるので素直に脳裡に焼き付けておこうと思いました。
過去に束縛されず、絶対にあきらめないというマインドをベースにしながらも感情に引きずられることなく常に今日から明日を見て適宜正しい判断を下しながら明日に向けて邁進していく。
なかなか難しい。
成功体験からの抽出
日本マクドナルドホールディングス株式会社代表取締役会長兼社長兼CEOの
原田永幸氏の著書「とことんやれば、必ずできる」
の中に今まで気づかずにいたけど、よく考えてみれば非常に重要だと思われることが書かれていたのでそれを紹介する。
<中略>成功の要因をきちんと分析できる人はあまりいません。これでは成功の価値も半減します。成功体験を分析することは、実は失敗から何かを学ぶ以上に重要です。なぜなら、成功要因の陰には必ず、自分の強みが潜んでいるからです。分析によってそこがわかれば、自分本来の能力を伸ばしていくことができます。失敗体験だけでは自分の弱みしかわからないので、成功体験が示唆する強みを知ることが必要だということです。
<中略>
失敗から弱点補強策を、成功から強みを伸ばす方策を見つけ出す、その両方を行うことで、人も企業も大きく成長することを覚えておいて損はありません。<中略>
今まで、自分は失敗体験から自分のどこが悪かったのか何が足りなかったのかという分析はちゃんと行ってきたつもりである。
しかし、
成功体験からの抽出は何もしてこなかった。
成功したときは、
運が良かったからだとか、
たまたまだとか、
努力してがんばったからだとか、
諦めずに最後までがんばり抜いたからだとか、
こつこつがんばったからだとか、
のように、運によるものか精神論という非常に抽象的なレベルで分析を片付けてきた。
この場合、言い過ぎ感たっぷりに言うと、成功したという事実とその慣性が生む一連の現象以外の何物も得るものがない。
(精神論レベルの分析でもそれなりに自分の強みはわかるけどかなり抽象的な強みだと感じる)
就職活動のときに成功体験からの自分の強みを抽出するにはしたが、それはあくまで就職活動というトリガーが引き起こした動作であり、実際その作業が自分の習慣になっているかというと全くなっていない。
上記の原田氏の考えを読んで、これからは失敗体験からのみではなく成功体験からも何かしらの自分の具体的な強みやそれ以上の諸々を抽出することを習慣とし、さらなる自分に繋げて行こうと考えるようになった。
【追記】
弱みを補強していく行為に比べ、強みをさらに伸ばしていく行為ってのは意外と難しいことのように感じました。
マイナスの方向を向いているものをプラスの方向に切り替えるというのはその結果が比較的わかり易いものですが、プラスの方向を向いているものをさらに強くプラスの方向に向けるってのは(数値化できるものだと別ですが、性格面などでは)その結果が分かりにくく意外と難しいように感じました。
上でこれから自分は成功体験から自分の強みを抽出してその強みをさらに伸ばしていくことを意識的に習慣としていこうと簡単に書いてしまいましたが、よく考えてみると、強みを抽出した後の処理が一筋縄ではいかへんなーと思ったんでここに追記しておきました。
プチ同窓会
26日に梅田で飲み会があった。
(25日から26日にかけて電車代が無いためにチャリで帰ってきたのに、26日の夜に飲み会で金をつれに借りてぼかーんと金を使ってしまうというこの矛盾は個人的に好きやったりします)
そんときに男のメンバーは中学んときのツレやった。
で、男は自分含めて三人(自分、M島、H山)で、M島とは結構会ったりしてたんでそんなに久々ではなかったけど、H山とは10年ぶりくらいの再会やった。
10年ぶりくらいやのに会った瞬間にすぐわかった。
ノリも昔のままでかなりいい感じのノリやった。
F井さん率いる女性陣との待ち合わせの前に男同士早めに待ち合わせてプチ同窓会チックなんで盛り上がった。これから色々オイタしていこうプロジェクトが立ち上がり、ちょっとわくわくした。
で、女性陣と合流して男同士では絶対に行くことがないであろういい感じの雰囲気の店で飲んだ。
(この店は落したい女性と二人で行くには最適な店なんで梅田を頻繁に使用する方は知っておいて損しないと思います)
大学んときの一部のかなり笑いのレベル高い奴らに追いつけるように、常にボケるタイミングと突っ込むタイミングを意識しながら貪欲にがんばった(つもり)。
やっぱ計算した笑いってのは難しいです。
貧乏学生、夏の夜を行く ~年甲斐もなく編~
25日の夜に起きた一夏のオイタ、過ち、冒険とでもいいましょうか。
26日に梅田で飲み会の予定が入ってたんで25日から実家に帰っておかんの飯でも食おうと思い立つ。
財布を見る。
財布には268円入ってた。
ふと、前に郵便局で金をおろしたときに残金が15円くらいやったんを思い出す。
引き出されへんやん!と嘆く。
ってか、15円引き出せたところで全然足りへんやん!と悶絶。
実家に帰るための電車代すら無いことを自覚する。
超貧乏学生やーん!って嘆きつつ、超貧乏学生体験を満喫している自分に対して満足する。
(この満足感はMだからという理由ではなくて、自分の経験欲を満たしてくれてるからという理由で受ける満足感)
煙草も買えねー!とちょっと嘆く。
一度思い立ったことは絶対に実行したい性格なんで、どうしても実家に25日中に帰ろうと思う。
電車代が無いなら、
そうやッ!!!
走って帰ろう☆
いやいやいや~、ちょっと待てって自分!!
マラソン嫌いやしそれはさすがに無理やって自分!!と自分自身に言い聞かす。
じゃ~チャリで帰ろう☆
ええやん、それ♪と納得する。
「電車代がない」→「自転車で帰る」
この推論にはかなりの論理の飛躍があるけど、あほなことが大好きな性格なんで進んで論理を飛躍させる。
たぶん、ってか普通は誰かに金借りるやろうけど、どことなくチャリで帰ってみるのも面白ろそうってのがあったんで、さっそくちゃりにカギを差込む。
テレビで台風どうこう言ってたけど、日本のどこに台風が来てるんか知らんし調べるのも面倒臭かったんで、自分は晴れ男やという根拠の無い自信と、台風ごときでつまづくようじゃこの先成功せえへんという変な信念とともに立ちこぎ開始。
けど一応、台風に備えて大きめのゴミ袋を一枚持っていくことにする。
25日23時30分に京都府京都市左京区を経つ。
8月の全財産268円。
にも関わらず、出発して20分ほどで何も考えずにコーヒーを買ってしまう。
残金148円。
悔やむ。
ふと思い起こせば24日の夜から何も食って無いことに気づく。
腹が減る。
残金148円。
飯を取るか水分を取るか悩む。
超貧乏学生やーん、俺!とまた満足する。
人生何事も経験、経験と自分に言い聞かす。
2時間半くらい走ったところでどうしようもなく喉がかわいたんで、しゃーなしにコンビニで紙パックのでかいサイズの103円のウーロン茶を買う。このウーロン茶は毎回お得感を与えてくれる。
残金45円。
ウーロン茶片手に御満悦気分でひたすら171号線沿いを走る。
途中、横からパトカーが通りぬけていって、自分の先で止まった。
警察官が降りてきた。
ポリかよー、めんどいなー!とちょっと悶える。
その第一声「高●警察だけど、ちょっと止まってくれる? (3秒くらいの空白) そのウーロン茶って高いの?」
なんやねん!このうわべトークのさらにうわべを走ってるトークは!!
とちょっと心の中で突っ込みつつ、「安いっすよ103円っす。」と丁重に返答する。
すると「へ~。ところでその自転車って君の自転車?」
なんやねん、このトークの切り替えし!無理があるやろ無理が!
と心の中で突っ込む。
結局、盗難自転車かどうかのチェックやった。
最後に「ところで何してるの?」って聞かれて「電車代がなくて自転車で京都から尼崎まで帰る途中っす。」って丁重に答えたら、笑いながら応援された。
それからひたすらチャリをこいだ。
途中、警察に止められたり、チャリの前のカゴが取れそうになったり、タイヤがパンクしそうになったり、カゴに入れてたかばんがぶっ飛んだり、トラックにひかれそうになったり、ヤンキーにちょっかいかけられたり、かなり険しい道のりでした。
中盤あたりのときに、各市に到着するたびに「タカツキ市~!(アドリブ)」「イバラキ市~!(アドリブ)」「ミノウ市~!(アドリブ)」とこの歳になって深夜国道沿いを走る1チャリの上から心の底から喜びのおたけびをあげている自分の姿を若き時の自分は想像したであろうか、否。
と、まあ色々ありつつ、
26日6時30分に兵庫県尼崎市の我が家に無事到着。
トータル7時間チャリをこぎ続け(5時間立ちこぎ、2時間ふにゃふにゃこぎ)、到着したときの感動はなかなかのものでした。
案外近くてびっくりしました。
後々考えると、マラソンで帰る方法を選択せんでほんまよかったと思いました。
が、いつしか挑戦したいと思います。
<この旅で得たもの>
■ゴールに向かってスピードは遅くてもいいからちょっとずつ前へ前へ進んでいると、ゴールとの距離が縮まるという事実
■「下宿先から実家に帰る電車代が無くて、自転車を7時間こぎ続けて実家に帰った」という体を張ったネタ
■青春
心に残りし言葉(5)~夢~
某 I 社の新卒採用日記というブログに先日非常に良い言葉が記されていたんでここに記すことにします。
その言葉というのは、
夢をかなえるためには、いつか夢から覚めなければならない
というものです。
この言葉が主張している内容は月並みなことかもしれませんが、「夢は見ているだけじゃいつまでたっても夢のままである」ということを再度考え直す良い機会となり、さらに表現手法としても、婉曲的表現や、一見パラドックスを含んでるかのようなフレーズの並びが、私の感性に大きく訴えかけてくるものがありました。
特に表現方法の方に大きな感銘を受けました。
上記の言葉は「夢は見ているいるだけじゃいつまでたっても夢のままである。だから・・・。」という内容(これに似たものも含めて)を表現するフレーズの中で、私が今まで出会ってきた言葉の中で一番美しいものだと感じました。
<<回顧 >>
嗚呼、無念
ここ数週間、内定者研修のビデオ制作をがんばってきました。
そして、今日提出締め切りでした。
そして、今日の締め切りにあわせて昨日の夜に編集の最後のツメの作業をしていた。
で、かなりい編集アイデアを思いついたんでめっちゃいい感じになるやろーなーって思ってた。
が、編集ソフトが全く動作しなくなった。。。
(VIDEO STATION9 に編集したデータの映像と音声がずれたMPEGを吐き出してしまうというバグがあり、それを修正するパッチファイルが配布されてたんで、そのファイルをかぶせたらバグりやがった。もう一回一からソフトをインストールし直すにも、そのソフト自体が手元になかったんで終わった。コンピュータに負けた。悔しすぎる。VIDEO STATION9 のぼけー!!)
かなりいいアイデアを持っているにも関わらずそれを実際に反映させられないっていうことに対しかなりの悔しさを覚えた。
それと、結局、若干映像と音がずれたままになってたんで、そこも修正したかったのに、それもできないってことに対しかなり悔しかった。
めちゃめちゃめちゃがんばって編集してきたのに最後の最後のツメができないって悲しすぎる。
めちゃめちゃめちゃがんばっただけに、納得のいく形に仕上げられなかったんがかなり悔しい!
めちゃめちゃめちゃめちゃめちゃ悔しい!
悔しすぎる!!!!!!
リクルートに落されたときとは比べ物にならないくらい悔しい(たぶん、リクルートに落されたときは全てを出し切った結果やったから、根本的に違うんかもしれんけど)。
ただ、最近でかい悔しさってのは経験してなかったんで、このでかい悔しさってのはかなり懐かしかったりもする。
また、改めて自分は「我がためにではなく、他がために」かなりがんばれる人だということも再認識した。
今回の編集作業がもし、完全に私利私欲のためであったらここまで予定を犠牲にしてがんばれなかった。
チームのためにここまでがんばれた。
ここらへんの性格をこれからうまくビジネスにもリンクさせていきたい。
死に逝く者達
生命を宿すモノ達は何故死に逝くのか。
厳密には、生命を宿すモノ達は何故死に逝くように設定されているのか。
それは当然だからという理由で思考を止めることは自分にはできない。
これは非常に大きな疑問である。
神がこの世界を創造したならば、その神は何故生命に寿命という要素を付加したのか。
ビッグバン以降に自然にこの世界が創造されたならば、何故生命に寿命という要素が付加されたのか。
これは非常に大きな疑問である。
自分がビット列で構成される世界を創造するときに、「生命は死に逝く」という概念を知らなければ、ゼロベースから果たしてエージェントに死という要素を自分が付加するだろうかという問いから生まれた純粋な疑問である。
この世界を最適化するために見えざる手が付加したのだろうか。
全ての裏にある真理が知りたい。
それと、もう一つの疑問。
何故この世界設定は、生命体が自らの力で自らの生命を絶つ行為を許したのだろうか。