吐露アンプリファー
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

独り言

器を手でこじ広げ、


もともとあった水の量では、


その容積に対する水の量がすかすかになってしまったとしても、


そこにまた水を足せばいい。


いたってシンプル。

るつぼ新年会

15日に今年度初のるつぼの集いになる新年会があった。


卒業式イベントのキックオフも込めて行なった。


メンバーの8割くらいが参加してくれたんで嬉しかった。


かなりおもろかった。


ってかポテンシャル高いやつ多すぎ、おもろすぎ。


るつぼ男性人とは14日にも一緒に飲んでたんでなんかいい感じやった。


こういうサークル的なんはなんかすげー好き。


るつぼでも服の変化の無さをいじられるキャラに定着しつつあり、大学んときと全く変わってないやんと自分の変化の無さを感じつつ、おいしいんで、まあええわと思う。


最近めっきり酒が弱くなったんで、こんなんで社会人になってから大丈夫かと思ったり思わなかったりした。


今回の新年会から初参加のメンバーに「みんなめっちゃ仲いいよな~!!」って言われたんが、何かめちゃめちゃ嬉しかった。


イベントがんばろっと★

バタフライエフェクト

その内部を考えると人生はカオスである。


人生の各瞬間瞬間を初期点と捉え、バタフライエフェクトを意識しながら生きていこうと思う。


現在から過去に遡り、その過去から現在に対してバタフライエフェクトを起こすというのは映画の世界に限られるが、現在から未来に対してバタフライエフェクトを意識するというのは可能だ。



***補足***


以下、共にWikipediaより引用


バタフライエフェクト(バタフライ効果):


バタフライエフェクトとは、カオス理論を端的に表現した思考実験のひとつ。カオスな系は初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して結果に大きな違いをもたらす。そのことが「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」とよく例えられ、これをバタフライ効果と呼んでいる。



カオス理論:


カオス理論は、決定論的な動的システムの一部に見られる、予測できない複雑かつ不規則な様子を示す現象を扱う理論である(ここで言う予測できないとは、現在人間の持っている数値計算手段ではという意味で、例えのことである)。カオスの定義は、研究者ごとに違い、統一的な見解は得られていないが、およそ以下の性質を持つものとされている。


・周期性を持たない
・リアプノフ指数が正
・何らかのポアンカレ写像により、テント写像が確認できる(ローレンツカオスの場合)


また、カオスには以下の特徴が現れる。


・自己相似
・単純な数式から、ランダムに見える複雑な振る舞いが発生する
・初期値のごくわずかなずれが、将来の結果に甚大な差を生み出す(バタフライ効果)
・過去の観測データから将来の長期予測が困難となる


一部のシステムが複雑な振る舞いをするのは、その振る舞いを表す方程式の非線形性が原因である(後述するローレンツカオスの場合、テント写像により引き起こされる)。自然界において観察できるシステム(大気、プレートテクトニクス)や、社会的なシステム(経済、人口増加)などは、カオス的振る舞いを示すものが多い。

最近猛烈に想ふこと

こう何か学生時代にしかできない超強烈に貴重な経験をしたい!!!!!

呼称のシフト現象が及ぼす不思議な感覚

ここ数日いとこんち(母の実家)(以下、これを家Aとする)に帰ってたわけですが、そこで不思議な感覚を覚えました。


いとこの姉貴が子供(2人目)を生んだんで安静のため実Aに戻ってました。


一人目の子供Mちゃんは1歳になっており、ほんとに軽い会話等はできる程でした。


で、


Mちゃんも姉貴と一緒に家Aに滞在していました。


ここで、


家Aにおいて呼称のシフト現象がリアルに発生していたので、それに対して不思議な感覚を覚えました。


今まで、僕にとって


いとこ(僕とため)
いとこの姉貴
いとこのおっちゃん(伯父)
いとこのおばちゃん
いとこのおじいちゃん
いとこのおばあちゃん


だった人達が、Mちゃんにとっては、


いとこ(僕とため)       →おっちゃん
いとこの姉貴         →お母さん
いとこのおっちゃん(伯父) →おじいちゃん
いとこのおばちゃん     →おばあちゃん
いとこのおじいちゃん    →ひいじいちゃん
いとこのおばあちゃん    →ひいばあちゃん


というように呼称がシフトしており、


さらに家Aの家族間においてもMちゃんと会話するときには矢印の右側の通称にシフトしていたので家A内のその新しく且つリアルな空気感に新鮮な感覚を覚えました。


それだけです。はい。



**注意**

Mちゃんにとって家Aは父方の家ではないので上の表記は厳密性を欠きますが、僕が家Aに滞在している時は上記のように呼ばれていました。

他人と同じ

興味深いことが書かれていたので以下に引用する。




他人と一緒でありたいという意識は、もうやめた方がいい。


それじゃ存在している意味はないんだから。


これから必要なのは、どんな人物になりたいのか、はっきりさせることだと思います。


そして、社員として働くなら、それを実現できる企業に属することです。



(「プロ論2」 住信基礎研究所主席研究員 伊藤洋一 のセクションより)




組織において「人は財産」というのは自分の組織運営経験からまさに実感するところである。


そして、サークルや趣味による活動のような非営利な組織では別かもしれないが、


企業のような金銭的利害関係が絡む(金銭的利害関係で人と組織が結ばれている)組織においては、


その組織において他の人と一緒で誰とでも代わりが利く人っていうのは経営陣からすればその組織に必要ない存在だと簡単に予想できるところである。


つまり、まさにその組織においてその人の存在意味は無いとされる。


これは極論でも何でもないと思う。


人と違うっていうのは、仕事ができるとかそういうことだけじゃなくて、


人と違ったスキル、個性、考え方、人生経験、秀でた容姿、等を持っているということでも全然良いと思う。


ただ、誰しも個性・考え方等は違ったものを持っていると思われるが、それは表に出さなければ他者からは決して見えず、そして群に埋没する。


そして、自分がどんな人物になりたいのか、そのビジョンをしっかり持っていてそれに沿って動いてる人ってのは頼もしい。

社会を信用する

興味深いことが書かれていたので以下に引用する。




これからビジネスパーソンが持つべき意識とは何か。僕は、とことんわがままに生きていくことではないかと思っています。


そして、わがままを貫くためにも、しっかり自分自身と向き合うことが必要となる。


「一生を通して何がしたいのか」「社会に対してどんな使命を持っているのか」「何が好きで、仕事に何を求めるのか」。そうした問いを自分に課し、実践していく。


より自分を知った人のほうが、明らかに高い満足感が得られます。だからこそ、内面を問うことが大切になる。実は答えは自分の中にあるんです。


<中略>


実は僕自身、キャリアに関して相当悩んだ時期がありました。「仕事をする」とは、社会に価値を創造することです。だとすれば、僕の使命は何なのか。僕は何のために生まれてきたのか。


<中略>


日本では、起業で失敗すれば、敗者復活が難しいことも知っていました。「大企業の看板があるから、お前は仕事ができるんだ」と言われたこともあります。では、なぜ飛び出したか。僕は社会を信用することにしたんです。


懸命に、最大限に自分の能力を伸ばし、うそをつかず誠実に社会に対して挑み、多くの人への約束を守り続けるなら、社会はきっと手を差し伸べてくれるはず。そういう人間になら、社会は温かいはずだ、と。



(「プロ論2」内 グロービス・グループ代表 堀 義人 のセクション より)




前半・中盤のくだりで引用した考え方は僕も同じ考え方であり、「内面を問うことが大切になる。実は答えは自分の中にあるんです」という仕事に対するスタンスを今まで最重要視してきた。


僕は色々な価値観を認める人なので、ある一つの考え方が全ての人に対して普遍性を持つということはあまり信用しない。


しかし、最近上記の考え方に何かしらの真理があると感じるようになった。


また、後半のくだりにおいての、社会に対するスタンスは今までは僕も一つの美学としては持っていた。


しかし、そこに説得力はあまりなかった(この部分で、今まで僕に説得力を与えてくれたのはワタミ、リクルート、インテリジェンスの三社です)。


が、実際社会で成功しておられる堀氏がそのスタンスで社会にアプローチしてきたということを知り、その美学をよりいっそう具体的なものとする根拠を僕に与えてくれた。


この社会に対するアプローチは非常に好きですし、最も自分になじむものです。


いつしか自分が会社から飛び出ることがあるときには、僕も社会を信用して社会に最大限貢献できるようにがんばりたい。


そして、そういう考え方を人間性の根底に持っている人と手を組んで一緒にがんばりたい。


社会も捨てたもんじゃないですね。

貧乏学生、雪景色を行く~年甲斐もなく編~<追憶>

22日の猛烈に寒波が襲った日に冒険してきました。


21日に次の日京都まで歩こうと思い立ったはいいものの、次の日起きたら雪が積もっていた。


普通に京都まで歩くよりも、雪が積もった中歩いていくほうが付加価値がついていいやーん、神様ありがと☆とか軽く思ったんが、後々命取りとなる。


とりあえず、感想を一言で言うと、


最強にしんどかったです。

途中で普通に何回も泣きそうになりました。

普通に凍死しそうになりました。



まず、冒険録の数字的な部分を以下に記しておきます。


以下の市の横に書いてある時刻はその市に入った時刻です。



<22日>


兵庫県尼崎市実家 : 12時00分出発
兵庫県伊丹市 : 不明
大阪府池田市 : 13時50分
大阪府箕面市 : 14時30分
大阪府茨木市 : 16時00分
大阪府高槻市 : 17時20分
京都府大山崎町 : 21時50分

京都府長岡京市 : 22時50分


<23日>


京都府向日市 : 00時30分
京都府京都市 : 01時30分
京都府京都市左京区下宿先 : 10時30分到着



ということで、22時間30分歩き続けました。内、店に入っての休憩時間はトータル2時間くらいです。


振り返ってみると、「ほんま自分よくがんばったよ!」って褒めてあげれるくらいのことはしたと思います。


途中から、意味のわからないくらいの寒さと極度の疲労によってほとんど足が動かなくなり、両足をひきずって歩き続けるという最悪の事態に陥り、何回も電車・バス・タクシーに乗ろうって思ったけど、そこでその誘惑に手を出さず、最初から最後まで自分の二本脚で歩き続けたことに対しすげー自分自身をリスペクトできた。


最後の方は最強に脚が痛くて脚が動かず、分速10メートルくらいまでペースダウンしてた。


最後は精神力だけで歩き続けてた気がする。


まじ、しんどかった。


家に着いて風呂に入ったときに脚をさすりながら、「おまえらよくがんばった、ほんまありがとう!」と声を出して心の底から脚を褒めてやるという若干悲しい子になってました。


こんな無茶はせめて夏にすることをお勧めします。


極度の寒さに筋肉は負けます。



<P.S.>


長い道のり(社会人人生)を歩むときに、


ただ漠然と歩いている(働いている)だけでは、


その過程において必ず何のために自分は歩いているのか(働いているのか)がわからなくなるときが訪れる。


そして、やめたくなる。


そのときに自分は何のために歩いているのか(働いているのか)の理由の柱を表層的なものではなく、自分という人間の根源的な部分から生まれてくるものとして持っていれば、


それによって、歩いている(働いている)意味をぶれることなく何度も思い出すことができ、


そこに再度確固たる意味を見出すことができ、


さらに前に進むことができる。


そう確信した。


今回の経験で。

貧乏学生、雪景色を行く ~年甲斐もなく編~<出発前>

ふと外を見てみると今年初で雪が積もってる。


よりによってこの大事な日に雪が積もるとはなかなかの運の持ち主かも俺、とか思いながら、


この逆境にかなり燃えてきたんで、


今から京都まで歩いてきます。

貧乏学生、雪景色を行く ~年甲斐もなく編~<前日>

僕には今年やり残したことがあります。


それは、




実家のある兵庫県尼崎市から昔住んでた京都府京都市左京区まで歩くこと




なぜ、これがやり残したこととして自分の中に残っているかというと、


今まで、電車・車・原チャ・自転車ではその区間を移動したことがあるからあとは徒歩で行かなあかんやろ!


っていうすごくシンプルな理由です。


で、なぜこれを実行しようとしているかというと、


ここまできたらやり遂げなあかんやろ!という意味のわからん使命感に駆られているからです。


あほです、はい。


ってことで、明日実行して自分自身の中にある尼崎京都物語を完結させます。


何時間かかることやら。


今日は、はよねよ。




ちなみに、自転車でその区間を移動したときの記事は↓


貧乏学生、夏の夜を行く ~年甲斐もなく編~

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>